32 南 (最終回)backnexttop
 「……はぁ」
 職員室の椅子に深く腰掛けながら、自分のふがいなさにため息が出た。目の前の小さな紙片を眺めながら。
 昨夜、例の注文――中間テスト打ち上げ飲み会の前に注文した、俺の部屋のスペアキー――が完成したという連絡があった。目の前にある注文票と引き換えに、今日取りに行くことになっている。
 が、半月前の雅美の様子を見ていると、その鍵を彼に渡すというのは、また彼を悩ませることになるのかもしれない。けれど、二週間やそこらで「不器用」を卒業できるわけもなく、それをカバーできる力が身に着くわけもなく、雅美を悩みから助ける方法は思いつかない。
 だいたい俺は中学時代、スポーツ推薦で中学に入ったし、頭で考えるより身体が先に動くタイプで、雅美みたいに勉強のできたヤツの悩みはあまりわからない。簡単に見えるところで難しく悩んだりするから。小学生のころは本当に悩まない子どもだった。「悩むということ」「頭痛」「胃痛」を知ったのは、個性的な部員に囲まれつつ部長をやった、中学三年のころだ。
 「あっれぇ南ちゃん! どしたの? アノ日?」
 女子生徒相手には充分にセクハラになるような言葉を吐きながら、ギッシギッシと背もたれを揺らす数学教師。俺の中三のときも、悩みの筆頭だった。
 どうでもいいけど、うちは私立なんだから、もう少し備品の寿命を考えてくれないだろうか。――くれないだろうな、あの校長だし。おかげで少なくとも、「モノを大切にする」という考えは我が校に行き届いているようだから、前向きに考えればいいのかもしれないけど。  「ああ、いや、なんでもない。ほら千石、授業の準備はできたのか?」
 千石の目には触れないよう、さりげなく注文票をしまい込みながら、たしなめる口調で言ったつもりが、なぜか気の毒そうな眼差しで見られてしまった。
 「あーあ南ちゃん、重症……」
 「何がだよ? なんだその目は」
 「ううん、なんでも……あ、今夜ヒマ? たまにはサシで飲み行こうよ♪」
 珍しく歯切れの悪い答えを返したと思ったら、すぐにいつもの調子を取り戻す。
 「あ、ああ。夜なら」
 放課後は、完成したスペアキーを取りに行くつもりだったが、その後は予定はない。
 とっさに正直に答えた後で、いつも合コンだなんだと遊びに明け暮れている千石が、今日は予定がないのかとか、なぜ俺とサシなんだとか、いろいろ疑問は湧いたけれど、昼休みに待ち合わせ場所指定のメールが来たきりで、本人に確認する機会はなかった。

 普通の四人掛けのテーブル席だけど、千石と二人だとなんだか新鮮だ。話の内容はたわいもないものだったけど、千石が次々ジョッキを開けるので、俺もつられていつもより頼んでいた。でも、千石が知っていた店だけあって、雰囲気も酒の味も良くて、悪酔いする気配はない。
 「でさー、せっかく取ってきたのにそれ、なんで渡そうかどうか悩んでんの?」
 ジョッキを置くついでに千石が、俺に人差し指を向ける。俺はつい、隣の席に置いた鞄へと視線を逸らした。
 「へー、そこに入ってんだ? 南ちゃん、相変わらずわっかりやすいなぁ♪」
 引っかかった。
 「でも、なんで知ってんだよ」
 「さっき職員室で注文の紙見てたじゃない。一瞬だったけど、もうばっちり☆」
 「……ああ、お前は昔から動体視力だけは良かったもんな」
 「もう、とげのある言い方だなー。八つ当たりは勘弁してよ」
 元オレンジ色のエース、現在オレンジ色の数学教師は苦笑しつつ、またジョッキを傾ける。言ってることは図星だ。
 千石には関係ないことで、必要以上にきつい言い方をしてしまったのを詫びた。
 「南ちゃんはほんと、良くも悪くもわかりやすいんだよう。雅美ちゃんとのことだって、学校でちょっとでも触れようもんなら、すぐ動揺が顔に出るし」
 「それは、学校で触れようとするお前らが悪いんだろ!」
 「だってオモシ……二人のことが心配なんだもんっ☆」
 こいつ、ぜったい面白いって言いかけた……。
 でも、今日誘ってくれたことや、さっきの表情に混じっていた二割ほどの真剣さが、千石なりの心遣いを感じさせる。こいつだけじゃなくて山吹中テニス部だった面々は付き合いも長く、微妙な表情の変化もわかるつもりだ。でも、こいつには感謝する面はあっても、どうも説教色が強くなっちまうんだけどな。
 俺は、いったん頭を冷やすインターバルを入れるためにも、トイレに立った。

 「ボク、中学のときから思ってたですけど、南部長は素直なようで素直じゃないですダーン。で、東方センパイは……」
 「そうね〜、雅美ちゃんは逆に素直じゃないようで素直よね〜」
 「何にですか、新渡米先輩?」
 「喜多くん、それは『己の欲望』ってやつだよ! だって雅美ちゃん、ときどき南ちゃんを見る目がエロいじゃん!」
 「千石くんの言うとおり、そのようにバランスが取れているために、私も彼らをダブルスで組ませてみたのですが。私の長い教師人生の中でも、彼らのダブルスは未だトップレベルです」
 「伴爺、さすが年の功ですね! 言うなれば地味ーズは『すれ違いの恋人たち』だな! あ、これ今度の新刊のタイトルにどうだい、十次?」
 「錦織さん、そんなタイトルの本、どのジャンルで出すんです? 大体、タイトルから決めるなんて邪道だというか、いつも錦織さんがそうやって行き当たりばったりだから、俺が迷惑……じゃなかった、今はそれを考えてる場合じゃないでしょう!?」
 ――トイレから戻ってきたら、千石が見当たらなかった。荷物もなかった。戸惑っていると、「南ちゃん、こっちこっちー!」と、座敷スペースで千石が手を振っていた。ご丁寧に、襖を閉めれば個室にできるようになっている。
 なぜそこに席を移したのか訊こうとすると、「お誘いありがとうございます。偶然近くにおりましてね」と伴田校長先生が姿を見せた。千石の手に携帯があるところを見ると、メールを一括送信でもして、召集をかけたんだろう。
 思った通り、あっという間に山吹中学の教員が集まった。一人を除いて。
 「千石……あの、雅美は?」
 「呼んでないよ?」
 「な、何でだよ!?」
 「だって今日の南ちゃんの悩み、雅美ちゃんのことじゃん。内緒で言いたいこともあるんじゃないかなーって。あ、でも南ちゃん寂しかった?」
 気を遣ってるんだが遣ってないんだか。
 今度は面白さと真剣さが半々の表情で問い返すので、俺もそれ以上何も言えなかったんだが。
 そしてなぜか、「俺が雅美にスペアキーを渡すためにはどうしたらいいか」という議題で、臨時職員会議が開かれている。
 完全に面白おかしく酒の肴にされているのなら、怒って席を立つのだが、みんなそれなりに真剣なため、むげに怒る気にもなれず。
でも非常に居心地の悪い話題には違いないので、今の俺の心の支えは、さりげなく俺の隣で煙草をふかしつつ、明らかに茶化すような発言をしたヤツ――筆頭はもちろん千石――を睨みつける亜久津だけ、とも言える。
 「さっきだってさ、南ったらオレがちょーっとカマかけたら、すぐスペアキーのありかをバラしちゃったんだよ!?」
 「どこ〜? 植木鉢の下?」
 「いや新渡米さん、そういう意味じゃないと思うんですが。むしろそれって、新渡米さん宅のスペアキーのありかですか……?」
 「十次、そんな心配そうな顔しなくても大丈夫さ! 新渡米のスペアキーは玄関の植木鉢の下なんて凡庸な場所にあるわけじゃなくて、新渡米の根元にあるんだからさ!」
 「そうなんですよー! 新渡米先輩は、大事なものはいつも肌身離さず身に着けてるんですよ!」
 「それはいいことを聞きました。あなた方のダブルスも、私の教師人生の中で、かなり特徴的で実験材料として――いえ、戦績も兼ね備え、貴重なものでしたよ」
 「喜多センパイは新渡米センパイの秘密ダダ漏らしですっ! ボクは亜久津センパイの秘密なんかバラさないですよっ! 普段は押入れの中にしまってある、カワイイにゃんこさんのぬいぐるみがないと眠れな……」
 「うるせぇ、黙れ太一!」
 そんな会話が繰り広げられつつ、よって俺自身は置いてけぼりである。参加したいわけではないから、いいんだけど。時々、本当に稀だけど、有意義な発言もあるし。
 「ていうかさ〜。なんで今さら南は雅美ちゃんに鍵渡すの渋ってるんだと思う〜?」
 「オレ、新渡米センパイの家の鍵持ってます!」
 「俺も十次に鍵渡してるけどな!」
 「いらないって言ったじゃないですか……いろいろ滞るから、仕方なく持ってますけど! 本当に仕方なく持ってるんですからね! 勘違いしないで下さいね!」
 「おや室町くん、それは若い人の言葉で『ツンデレ』というやつではないですか? あなた方もシングルスだけでなく、ダブルスを組ませてみるべきだったでしょうか。今さらながら、無限の可能性が感じられますねぇ」
 「ねぇ伴爺、オレだよオレ! オレをあっくんと組ませてみたら面白かったと思わない!?」
 「千石センパイ、それじゃ振り込め詐欺ですよ? だいたいセンパイは存在が詐欺くさいですけどっ!」
 「テメェら……」
 明らかにいらついている亜久津を、ついなだめにかかってしまう。と、千石が奇妙な表情で口を開く。
 「だからさぁ、前にも言ったけど、南はそうやっていつも人のことばっかり。本音では、南自身はどうしたいの? 鍵のこともそうだけど、東方とどうなりたいの?」
 奇妙な表情、とは失礼な表現だった。
一〇〇パーセント真剣な表情と口調で、千石は俺に問う。茶化す気持ちがないときは、呼び方が変わる。それは昔から変わらず、今の雅美が眼鏡を外すようなものだ、と俺は捉えている。
 その千石の言葉と口調によって全員の視線にさらされ、俺は答えることができなかった。
 亜久津が、助け舟を出してくれた。
 「煙草買いに行く。主任、ちょっとお前も顔貸せ」
 亜久津は俺を店の外に連れ出した後、黙って近くの煙草の自販機を示してから歩いて行ってしまい、俺を一人で残した。
そして俺は考えた。

 ガードレールに腰掛けながら、隣で亜久津は煙草を吸っていた。今日はどうやら、珍しいツーショットに恵まれる日のようだ。何やら不慣れな手つきで携帯をいじっている。これも珍しい光景だ。
 「優紀さん、元気か?」
 メールの相手は、中学のとき亜久津に無理やり携帯を持たせていた、あの若々しくて可愛らしいお母さんだろうと思い、尋ねる。
 「…………」
 「あ、ごめん。なんでもない」
 詮索が過ぎたせいか、険しい眼光を向けられた。でも、世間話といっても、話題がなぁ……
 「余計なこと考えてんじゃねーよ。お前には他に考えることがあんだろーが」
 「……はい」
 厚意を受け取って、雅美とのことに考えをめぐらせることにする。
 千石につられてけっこう飲んだけど、不思議と眠くはならなかった。むしろ、少し頭がクリアになっている気もする。
 ――そこからどれくらい時間が経過したのかわからない。
 でも、そんなに経ってはいないと思う。亜久津の煙草の二本目は終わっていなかった。

 「健太郎!」
 「…………雅美?」
 血相を変え、襖を開けて現れたのは、今日は呼ばれていなかったはずの雅美だった。確かに、今日帰ってからメールして、明日にでも会うつもりだったんだけど……どうして今?
 「いや、メールがたくさん来て、情報が交錯してて、でもとにかくお前が大変っぽいから……」
 怪訝そうな俺の表情を見て、言い訳する語尾が弱まってゆく。眼鏡ずり落ちてるし。
 「えへへ……呼んじゃった☆」
 千石が携帯を掲げる。全員、多かれ少なかれ同じような反応を見せている。
 「なーんだ、皆さん考えることは同じだったってことですねっ!」
 解説ありがとう、太一。
 「惑わされるな。俺はこのとおり無事だ」
 「え? そ、そう、か……」
 雅美は、ずれた眼鏡を直した。そこまで心配してくれたんだってことはわかってる。ありがたいとも思ってる。
 「こっち来いよ。焼酎ロックでいいよな?」
 雅美好みの割合を思い出しながら、作ってみる。雅美が開けた襖を、室町が気を利かせて閉めてくれた。
 「……南くん」
 「もう気を遣わなくていいよ。こいつらなんだから」
 周囲の目を気にして、というより周囲の目を気にする俺を気遣って苗字で呼ぶ雅美に、俺はグラスを差し出し、笑ってみせた。
 「やるよな? 駆けつけ三杯」
 「駆け……!?」
 雅美も周りも、完全に虚をつかれた顔をする。
 いつもハメを外したりしなかった、部長で学年主任の俺が、そんなことを言うのが意外なんだろう。ちょっと楽しい。そうか、千石はみんなのこういう表情を楽しんでいたのかもしれないな。
 「……できないことはないけど」
 「じゃ、やれ」
 笑顔で命ずる。
 珍しく強引な口調に、周囲が再び驚いているのが伝わってくる。空気の変化にめざとい室町と亜久津あたりは、「飲みすぎたのか、すっかりできあがって」という表情で心配している。千石は表情どころじゃなく、「南がキレた……」などと失礼なことをほざいているけれども。
 三杯あおるのを見届ける。これくらいで雅美が酔うとは思わないけど、相手が完全に素面だと思うと、くじけるから。身勝手な理由でごめん、雅美。
 そして本当は、ここで言う予定じゃなかったんだけど、雅美が来たから今、この場で伝える。
 「雅美。俺の部屋の鍵、お前に渡しとく。お前は俺と付き合ってんだから、いつでも来い」
 部屋は、のきなみ沈黙。
 「うわ〜南、とうとう宣言したね〜」
 それを破ったのは新渡米だった。それを皮切りに、「スゴイ、珍しく派手だよ!」「おめでとうございます!」「今の、プロポーズだったですかっ!?」「十次、俺たちもそろそろ入籍しようか!」「それで一〇一回目のプロポーズです……でもそれが一〇二回になっても、錦織さんとだけは結婚する気はありませんから!」などと、みんな口々に感想を漏らす。
 「……健太郎」
 「頭のいいお前には及ばないけど、これでも考えたんだ。俺は、お前に鍵を渡すことで、プライベートでは一緒にいる時間が増えるなら嬉しいし、その分お互い学校ではけじめをつけられれば、それでいいって」
 「でも南ちゃんは顔に出やすいよねー」
 千石がまぜっかえす。その表情に半分以上の安堵が見えたから、頭ごなしに叱るのはやめておく。
 「そこでだ。生徒に聞かれかねない場所や他校の先生の前で、俺たちのことを話題にしたりからかったりしたら『各科目の研究会にその後三回分、研究材料になりそうなテスト問題を作っていく』というペナルティを課す!」
 俺は宣言した。
 「えー、それ厳しい! 南ちゃん横暴!」
 「おいおい、〆切とブッキングしたら、十次が困るじゃないか!」
 「ね〜、今でもオレの芽は研究会で材料にされそうなんだけど〜」
 口々に反論するヤツらには、「何なら今、各校の主任の先生方に今すぐ『次から三回、うちの教員が問題作ります』って電話してもいいんだぞ?」という脅し文句つきで、携帯を突き出す。
 「成長しましたねぇ、南くん。それでこそ部長です」
 感心したような伴爺の言葉は、本来なら十年前に部長らしくなっていなければならなかったんじゃないか、というツッコミどころがありつつも、いつまでも教え子である俺に、とても温かかった。  ――それに、俺は基本的にうちの教員のことは信頼している。必要以上に、俺と雅美の関係を吹聴することはしないだろう。
 が、どうしても学校でからかわれるのは避けられないだろう。(筆頭は千石)
 しかし逆転の発想をすれば、そこで顔に出さない練習をすればいい。……もちろん、そう簡単には慣れられないとは思うけど、せめて一歩ずつでも。
 「健太郎……これで良かったのか?」
 結局、いつもの打ち上げと変わらぬ飲み会に突入した面々を眺めつつ、雅美が小声で耳打ちしてくる。
 「なんかまずかったか?」
 「いや、そういうわけじゃないけど」
 「ならいいじゃないか。あ、もちろんお前も、学校でスキンシップを図ったらペナルティな。立海の保健の先生にもしっかり連絡しておくから」
 「それだけは……大体、君から来ることはないのか?」
 「それは……」
 痛いところを突かれ、俺は一瞬口ごもる。
 「……そ、そういうことがあったときは、俺だって問題を作っていくぞ!」
 「それって、真田先生や手塚先生が怖いせいじゃないよな?」
 「そんなわけ! ない……と、思う」
 一転、少し弱気になる俺に、雅美は笑う。いつも俺にしか見せないような表情で。
 「楽しみにしてるよ。――とりあえず、今夜は行っていいんだよな?」
 「ああ」
 鍵を揺らす雅美に、俺はうなずいた。



Fin.
 
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