31 東方backnexttop
 驚いた。
 こうもストレートにこられるとは予想外で、でも何だか健太郎らしくて、その瞬間思わず噴き出しそうになってしまう。
 願ってもなかった機会、茶化すことで話の腰を折ることだけは避けたくて、焼酎が注がれたグラスに口をつけた。
 視線が絡み合って、といえば何だか雰囲気があるが、今度はあまりにも切羽詰まった彼の様子がいたたまれなくなり、先にこちらから外してしまった。
 テーブルにグラスを置くとカラン、と氷の音がして、それに合わせるように健太郎が息を呑んだ。
 実際俺は左手にした腕時計に目をやっていて、見てはいないのだがまさに、そう感じた。
 彼の前にある、烏龍茶の割合が高めな液体は、先程から殆ど減ってはいなかった。
 そもそも俺に勧めるぐらいで──口実とはわかっていたが──、好んで口にする味ではないのだけれど。
 生真面目な彼らしく、テレビも音楽もついてない部屋に潜んでいるのは、お互いを探る空気。

 飲み会の前に、泊まりに来てほしい、と珍しくお願いされるような健太郎の物言いにまず、驚いて、その内容に二度目の驚きを覚えた。
 正直この領域に足を踏み入れるまでは、下心がなかったわけではない。
 それが俺の一方的なセクハラ──一方的な欲求だからそう呼ぶんだが──ではなかったと明らかになって、しかもペナルティは俺に任せるって、まぁそりゃあ、お応えしましょうか?ってのが今までの俺だったかもしれない。

 だったのかもしれない、と過去形なのは、「雅美?」と呼ぶその人の声が、ことのほか優しく心に染みたからだ。
 ──俺、何か意地になって大事なことを置いてきてしまったのではないか。
 健太郎が言ったことを思い返す。

 『雅美に迷惑をかけてると思う』
 実際迷惑だなんてとんでもなくて、寧ろ頼ってくれることで、俺の前だけで気を許してくれることで、愛情を感じていたはずではなかったのか。
 俺が一番、健太郎に気を遣わせる存在になっていやしないだろうか。
みっともない、子供じみた我侭で、彼が我侭になれる機会を奪っていたのではないだろうか。

 ──俺、何やってたんだろう。
 目の前のローテーブルに両肘をつくと、頭を抱え込む。情けなさと恥ずかしさと、色々な思いが交差してまともに顔が上げられない。
 このままではきっとまた、距離を置こう、の意をまた俺が飛躍して捉えていると誤解されてしまう。
 『待ってほしい』というのはつまり、俺のことを信頼して、前向きに考えてくれている、ってことだよな。

 カラン、ともう一度氷の音がして、ハッと我に返る。
 俺らしくない行動に、沈黙を破る健太郎の声。
 「あのさ、雅美……」
 俺が窺うようにして目線だけ動かせば、彼が自分のグラスを両手でグッと握り締めていた。
 俺は頭の中でシミュレートしたことを声に乗せる。
 「あぁ、悪い。わかった、距離を置こう。何、大丈夫、ちゃんと意味はわかってる──」
 「じゃあ、なんでそんなに、泣きそうな顔してるんだ?」
 伸ばされた腕と頭を包み込む掌は、本来俺が彼に与えてやりたかったものだ。

 ──あぁ、俺は本当に、何をやってるんだろう。
 すぐにその手は引っ込んでしまったが、それがまた健太郎らしくて、俺はこんな時なのに、ますます彼が愛しくなっている自分に噴き出しそうになる。
 再び焼酎に口をつけると、俺は健太郎の目を見た。
 「そのさ、健太郎が言うとことのペナルティってやつ、今でも…いいか?」
 「えっ?あぁ……、わかった」
 彼の身体が強張るのがわかったが、俺は見ない振りをして左手のシルバーの時計を外し、テーブルに置いた。
 その脚を避けるようにして右側へ這い出ると、そのまま四つん這いのような格好でにじり寄る。
 身動き一つしない彼を視界の隅に捕えると、左手で身体を支えながら右手で眼鏡を外し、それもテーブルに置いた。
 健太郎が息を呑むのを、今度ははっきり確認する。

 「今だけは、──今だけでいいから、主任殿じゃなくってさ、健太郎として俺に、胸貸してくれ」
 思いのほか自分の声が震えていることに気付いて、でも髪を撫でるその指が思っていたよりもずっと骨太で、それでもやはり温かくて、俺は肩に顔を埋めながら、気付いたらそんなことを口にしていた。 
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