08 南backnexttop
 「まあ……これで梅雨時期の新渡米先生も大丈夫だと思えば、な」
 一緒に音楽室から出てきた雅美が言う。

 ――新渡米の芽が喜多のピアノに合わせて揺れているのを目撃してしまい、音楽室の入口に立ち尽くしていたら、喜多が俺たちに気づいて声をかけてきた。
 そこにいた二人の説明によると、新渡米(と芽)は、多少雨を浴びると非常に調子が良くなるのだが、日光に当たる時間が短いと逆に元気がなくなるらしい。
 でも、ひょんなことから喜多のピアノの音で調子が良くなることを発見し、それ以来、太陽が顔を見せない日の新渡米(と芽)は、喜多のピアノで体力を回復しているんだとか。
 初めて明かされる衝撃の事実に、俺は「そうなのか……えーと、がんばれよ」などとわけのわからないセリフを残すのがやっとで、雅美と二人ですごすごと音楽室を出てきたのである。

 「大丈夫って……そういう問題なのか?」
 雅美の言葉に俺が疑問をぶつけると、雅美は「うん?」と眼鏡越しの視線で問い返してくる。
 「いや……あんな歩く非科学が、うちの生徒に理科を教えてると思うと、俺は頭が痛……」
 「痛いのか?」
 すかさず尋ねられ、俺は慌てて否定する。
 「い、痛くない痛くない痛くない! ああそうだ雅……じゃなかった東方先生、どうしてこんなとこにいたんだ? なんか他のとこに用があったんじゃないのか?」
 ――いちおう雅美とはその……ちゃんと付き合ってはいるんだけども、でもここは学校だし、公私混同は良くないから……などと急いで考えた結果だったが、我ながら不自然で説得力のない口調になってしまった。
 案の定、雅美はそういうとこを見抜いてくる。くそ。
 「無理はいけないなぁ。ここで南くんに倒れられでもしたら、生徒も俺たち教員も困るんだが?」
 「ぐっ……」
 明らかに笑みを含んだ声で言われ、俺が言葉につまったとき。
 「おっ、地味’s先生!」
 やたらとすがすがしい口調で廊下の向こうから声をかけて走ってくる人物がいた。
 『……なんだよ!?』
 思わず俺たちは学生時代のように反応して、振り向いてしまう。
 その声の主は、やっぱりというか何というか……
 「錦織……先生! 廊下は走るなっていつも言ってるだろ!」
 「まったくだ。次回から、錦織先生の保健室のベッド使用権はないと思ってくれよ」
 「ああ、悪い悪い!」
 相変わらず悪びれた様子もなく、錦織は爽やかに笑う。
 「で、どうしたんだ、二人とも?」
 「ああ、別に……」
 言いかけると、雅美が俺の言葉をさえぎる。
 「室町先生の体調がなかなか治らないようだから、亜久津先生に食品のカロリーと栄養素の本を借りて、渡しに行こうと思ってたんだ。けど、どうも南くんの体調も良くないみたいで、な。保健医としては、心配の種が尽きないってところで」
 ――そうだったのか、雅美……って俺のことは言わなくてもいいだろう!
 「こら、雅……東……」
 反論しようとすると、珍しく錦織が深刻な表情で考えこむ。
 「室町先生が……そうだよな、リミットブレイクでかなり無理させちゃったしな。わかった、俺が亜久津先生のとこで借りて、渡しておくよ。いいだろ、東方先生?」
 「りみっと……ってその前に、無理させたって何のことだ……?」
 いくら錦織が英語教師だからといっても、どうも不自然な英単語と不穏な単語を耳にした気がして、俺は小さくつぶやいてみたが、二人ともまったく気にしやしない。
 「頼む。助かるよ」
 二人の間ではあっさり約束が成立したらしく、錦織はさっさと家庭科室へと向かっていった。
 錦織の後ろ姿に、雅美はひらひら手を振る。
 「お前ってやつは……なんでああいうことを言うんだよ!」
 「ん? あれは全部俺の本心だけど?」
 「……っ」
 ――そう大っぴらに言われると反論しにくくなるじゃないか、雅美のアホ!
 そんな俺の心を知ってか知らずか、雅美はしれっと言ってのける。
 「さて、では保健室にまいりますか、主任どの」
 「嫌だ! こんなのウチに帰ればすぐ治る!」
 意地を張って押し問答をしていると、背後に人の気配がした。
 振り向くと女生徒が一人、手に紙を一枚持っている。
 たしか、保健委員だったはずだ。
 「えーと、アンケート、遅れて出した子がいて……でもあの、明日にします! ごゆっくり!」
 彼女は一気に言って頭を下げ、そそくさと走って行ってしまった。
 ――って今、明らかに雅美に向かって言ってたよな? 「ごゆっくり」だと?
 「……雅美? 今の……どういうことだ?」
 思わず俺は学校での呼び方を忘れ、約10センチ上にある雅美の顔を、じろりと見上げた。 
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