23 東方backnexttop
 額に感じる心地よい冷たさに、薄っすらと目を開く。それが離れて行くのが惜しくて、モゾモゾと布団から腕を伸ばすと、聞き慣れた声がした。
 「目、覚めたか? お前殆ど何も食わないで薬飲んだら、胃が荒れるだろう! 医師なんだろう? 自分の身体は自分で労わってやれよな!」
 仮にも恋人が目覚めて第一声がこれだが、口調は荒くても音色が優しい。
 「…何でそれ…?」
 今日は健太郎のことは気になりつつも、なるべく俺のことでは心配をかけないように、自粛の意味も込めて、殆ど保健室に篭りっ放しだった。勿論昼食時も。
 ──ゴミ箱に捨ててあったカロリーの友の黄色い箱でも見られたのか。
 「台所の流しを見たらわかります。まったく、こんな日もコーヒーは飲むんだからな」
 ブツブツ言いつつも、俺のことを心配そうに覗き込んでいる顔で、全てはバレバレである。
 「お粥あるんだ。それ食べて、また薬飲んで寝ること。いいな?」
 「…今、何時だ?」
 「10時ちょい過ぎかな。ちょっと待ってろよ。レトルトで悪いが」
 腕時計を見てそう言うと、健太郎は立ち上がって寝室を出て行った。

 ──-やってしまった。
 風邪を引いたのは仕方ないし、健太郎に言われた通り自分の身体のことはわかるから、これ位で命に別状はないことは察知できる。
 でも彼は、いざって時は自分のことのように、相手に尽くす子なのだ。そこがいいところでもあるんだが、昔からしみついた癖で、俺位は余計な心配をかけたくないという気持ちが働いてしまう。
 働いてしまうというか、そこを悟られないようにするのが、「気の置けない二人」における、俺なりの役割だった。
 ──二人の関係が微妙になったのは、そこが原因だったはずなんだが…。
 テスト準備がある忙しい時期の健太郎に、俺が病気だなんて知られたら、こいつは看病しに来るに決まっているのだ。弱っている人間を診るのが俺の仕事だとしたら、弱っている人間を放っておけないのが健太郎の性分なのである。
 どうやら今俺にできることは、大人しくこの厚意に感謝し、さっさと熱を下げてしまうことだけのようだ。

 言われた通り、お粥を食べて薬を飲むと、先程よく働かない頭であれこれ考えたせいか、それとも日頃の疲れがたまっていたのか、身体が重くなって、そこで記憶が途切れた。
 一度夜中に喉が渇いて目が覚めると、ベッドサイドのテーブルにはスポーツ飲料水のペットボトルや、熱冷ましの冷却シートなどが置いてあり、スタンドのライトがそれらを照らしていた。何気なく自分の身体に目をやると、どうやら寝巻きも着替えさせてくれたようだった。
 ドアの隙間からは、リビングの灯りがもれている。健太郎は、自宅でやるはずだったテストの準備をしているのだろう。

 つい一昨日の朝までは俺の腕の中にいて、温もりを感じていたが、今の方が健太郎をより近くに感じられる。病気をすると人恋しくなるというけれど、それとは違う。意地っ張りだが可愛い、それは昔から変わらない好きなところだ。
 でもそれ以上に、健太郎は頼りになって、誇れる男だ。今回のことで改めてわかった。これからも、俺だからって理由で、時々また、肩を貸してもらえるだろうか。
 ──普段はこんなこと、滅多に言えないんだが。何かちょっとは、愛されているって思ってもいいんだろうか…。

 朝起きて熱を計ると、昨日よりはだいぶ下がっていた。まだ身体はだるいが、休んでもいられない。起き上がって寝巻きの上着を脱ぎ、ベッドから這い出ると健太郎が入ってきた。
 「雅美、熱は下がったのか?」
 「あぁ、大分」
 「…大分、だろ? そんなフラフラした保健医に、誰も診てもらいたくないぞ」
 「これ位で休んでいたら、社会人やっていられないじゃないか。生徒達だって心配だ…」
 そこまで言うと眩暈がして、健太郎に支えられる。
 「…大事な生徒に、テスト前に風邪をうつさないであげるってことも、保健医の務めってものじゃないのか?」
 「…はい、そうします。健太郎様、この度はお世話になりました」
 珍しく従順な、おぼつかない足取りの俺をベッドに押し倒すと、健太郎は満足げに笑ってみせた。

 一日休んで、水曜も健太郎の計らいで少し遅めに出勤させてもらった俺は、休み時間、彼に封筒を手渡した。
 俺の部屋の合鍵と、「今度手料理を食べさせて下さい」という手紙を添えて。
 ──本当に亜久津あたりに料理習いそうだよな…真面目だから。
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