26 南backnexttop
 ――あー。勢いとはいえ、学校でああいうことはするなって言い出したのは俺なのに、雅美に口実を与えてしまった気がする……。
 なんであんなことになった――いや、した――のか、自分でもよくわからない。
 それに、雅美がああして自分の部屋の鍵を渡してくれた以上、俺も自分の部屋の鍵を渡すべきなんだろうか。
 いや、後ろめたいことがあるわけではないし、渡すのはかまわない……気もするけど……雅美って、俺がいつもひっかかるこういう葛藤の部分を、あっさり超えるよな……。

 社会科研究会のプリントの束を前にして、俺は深くため息をついた。もちろん、内容なんか頭に入ってくるわけがない。
 するとすかさず、「聞いているのか、南!」と鋭い叱責が飛んできた。
 「あ、ああすまん、その……」
 「たるんどる! 貴様は山吹の主任でもあるんだろう! それがそんな調子でどうするんだ!」
 立海大附属の社会科教師である真田に叱られ、俺は「す、すまん……」と弱々しく言うのがやっとだった。
 「だがその調子ならば当然、中間考査の問題は完成しているんだろうな?」
 「い、いや、それがまだ半分くらい……」
 雅美のことは言い訳にせず、正直に出来具合を報告する。
 「まったく、たるんどる! 我が校など、試験一週間前にはほとんどの教師が問題を完成させているぞ!」
 ――すみません。うちの教師陣はおそらく誰も……もし完成しているとすれば、室町くらいなものです……実は一夜漬け状態でテストを完成させる教師も、よく見受けられます……。
 かくいう俺だって、普段から一週間前には完成してることはほとんどないし。
 でもそんなことを言えば、もっと怒られるであろうことは想像に難くないので黙っていたら、「あ? テスト問題が早くできてりゃ偉ぇのか? 激ダサだな!」と氷帝の社会科担当、宍戸が鼻で笑った。
 案の定、真田の眉がぴくりと跳ねあがる。
 「ほう? あらかじめ問題を完成させて準備を万端整え、授業も完璧に進めるのが教育のあるべき姿だと思っていたが――貴様の授業には、計画性というものがないと見えるな?」
 「笑わせんじゃねー。相手はナマモンだぞ、臨機応変っつー言葉を知らねーのか」
 宍戸の言葉に、真田がさらに言い返そうとしたとき、手塚が間に入った。
 「真田の言いたいこともわからんではないが、宍戸の言うことも一理あるだろう」
 「ならば手塚。貴様も計画もなしに授業を進め、それに合わせて問題を作っているのか。準備不足も甚だしいだろう」
 「俺は、授業計画と問題作成計画を並行して行っている。授業によって、作成した問題に後から手を加えられるよう、若干問題のほうを先に完成させているが」
 「ふむ……」
 さすがに手塚のやり方を頭ごなしに否定する気にはならなかったらしく、真田が一応うなずいたとき、聖ルドルフと六角から参加の二人が同時にあくびをした。
 「ま、まずいですよ、木更津さんたち……」
 不動峰の桜井が小声で慌てて制止しようとしたが、しっかり真田に見つかってしまう。
 「木更津兄弟、たるんどる!」
 真田が机をダン!と叩き、俺と桜井は自分たちが怒られたわけではないけれど、思わず肩がびくりと震える。
 「だってこんな会議、つまんないよ。研究会だって言うから来てみたのにさ、クスクス」
 「ああ。テストをいつ作るかなんて、人それぞれだと思うし」
 「同感だな」
 木更津兄弟の言葉に、宍戸が同意する。そこでとばっちりを受けたのが桜井だった。
 「桜井! 貴様もそいつらと同じ考えか? 貴様はどこまで完成している」
 「あ、あの……今のところ、七割ほどです。強いて言えば俺は、手塚さんの意見に賛成で……」
 この中で一人だけ年少の桜井は、真田の迫力に圧されるように言う。
 ――そりゃそうだろう、情けない話だけど、タメの俺だって真田には圧倒されるからな。
 うちの学校のオレンジ頭の数学教師や、むやみに爽やかな英語教師、歩く非科学の理科教師あたりだったら、心臓や神経が強化ガラスでできてそうだから、大丈夫そうだけど。
 「……ふむ。橘のところは、少しは話のわかる教師を育てていると見える」
 「そういえば、うちの図書館じゃ見つからなかったあの資料、見つかったか?」
 「ああ、ルドルフの資料室にそのまま使えそうなやつがあったから、今度のテストで使おうよ。クスクス」
 またも真田の話を無視して、木更津兄弟が勝手に打ち合わせ(?)を始める。
 「お、おい、二人とも……」
 別に俺が悪いわけじゃないけど、俺の胃が痛み出す。
 案の定、また真田の雷が落ちた。
 「貴様らは真面目にやる気がないのか!」
 「あるから話してるのにね、クスクス」
 「本当だよね、クスクス」
 ――話を聞いていると、木更津兄弟は同じ科目の教師であることを利用して、同じような範囲の問題は手分けして作成しているらしい。
 俺なんかは正直、効率的かもしれないとこっそり感心したし、桜井も表情を見ていると俺と似たり寄ったりの感想を持ったようだし、宍戸は「なかなかやるじゃねぇか」と、はっきり口に出して感心していた。
 「だって、それで明らかに時間が節約できるし、クスクス」
 「労力もね、クスクス」
 「教師たるもの、生徒のための労力と時間を惜しむとは、たるんどる! よしんば、それが貴様らにとっては好都合だとしても、もし生徒間で問題の流出があったら不公平になるではないか!」
 「でも、うちは千葉だし」
 「そう、しかもかなり田舎のね。で、うちは東京だから、接点はないと思うよ」
 「……お前の出身校でもあるけどな」
 双子の会話が少々剣呑さを帯びてきたとき、それまで黙って成り行きを見守っていた手塚が、時計を見て言う。
 「悪いが、この教室を使っていられるのは午後八時までとなっている。そろそろ時間なんだが」
 「そ、そうだよな、あんまり遅くまで使ってちゃ青学にも迷惑がかかるしな。じゃあ、お開きにしようか?」
 俺が慌ててフォローすると、真田が力強くうなずいた。
 「その点は心配いらん。軽く二次会を、と思って俺がこの近くの店に七人分予約を入れておいた。続きはそこで、腹を割って話そうではないか」
 …………えー!? これ、まだ続くんですか!?
 このままで俺、胃がもつんだろうか……ただでさえ私生活(?)の面でも胃痛の種を抱えてるっていうのに(自業自得だけど)、これ以上このメンツ――主に真田――に付き合えと?
 ――雅美……俺、今かなり胃薬欲しいかも……。
 胃痛の一因である雅美に、内心身勝手に願いつつも、この場は自分でなんとかするしかない。
 「いや、あの、真田……みんなそれぞれ、都合があるかもしれないし……」
 恐る恐る、真田に言ってみる。
 「都合がついたから、今日こうして集まったのであろう。そのために、俺は我が校ではなく、皆が集まりやすかろうこの青学まで、出向いてきたのだぞ」
 第一ラウンド、あっさりと俺の負け……で、でもリトライ! がんばれ、俺!
 「その、でも……」
 「それに、約束を破るのは性に合わん。よしんば、それが居酒屋の予約であってもだ」
 「……さいですか……」
 ――第ニラウンドを挑む前に南健太郎、完全KOです。
 「お前、いいかげんにしろよ。今日だってかなり無理して出てきてんだぜ? これ以上付き合ってられっか!」
 よ、よく言った宍戸! すごいぞ、宍戸!(そして情けないぞ、俺……)
 椅子を蹴るようにして立ち上がった宍戸を、真田は挑発する。
 「やはり計画性のない教師は、この程度の付き合いもできないと見えるな」
 「……ッ! そこまで言うんだったら、付き合ってやろうじゃねーかよ」
 宍戸は真田をにらみつけた。折りしもかかってきた携帯に、宍戸は不機嫌そうに出る。
 「あぁ!? 今外で待ってる!? バッカじゃねーのお前、ここまでついてきたのかよ! ったく、こっちにも付き合いってもんがあんだよ! …… 違ぇよ、その付き合いじゃねぇ! あーわかったわかった、跡部にイヤミ言われんのはゴメンだからな、ちゃんと明日は行く! お前はおとなしく帰れ! あぁウゼェ、一人で帰れるっつってんだろ、お前帰れ!」
 最後は携帯にむかって怒鳴り散らし、ぶっつりと携帯を切って宍戸はため息をついていた。
 「あー……」
 理由はよくわからないけど、なんとなくそんな宍戸に親近感をおぼえてしまう。……なぜだろう。
 木更津兄弟は、特に挑発に乗ったふうでもなく、普通に行くつもりらしい。
 「淳、今日はお前の部屋に泊まるよ。明日は授業三時間目からだから、職員会議と二時間目までサボるって剣太郎に言っておこう。クスクス」
 「泊まるなら、高くつくよ。……あ、でも僕も明日は二時間目からだったな。観月に電話しておこうかな、クスクス」
 「あ、あの、ルドルフの主任って赤澤じゃなかったっけ……」
 俺の弱々しいツッコミは、さっさと携帯を取り出して話し始めた木更津(弟)の前に、まったく無力だった。
 「さ、桜井……お前はどうするんだ?」
 「……南先生、この状況で断れると思いますか……?」
 「そ、そうだよな……ごめん、悪いこと訊いた」
 「いえ、かまいませんよ。それに、飲むのは嫌いじゃないし……それより、南先生は大丈夫ですか?」
 桜井の問いに、俺は苦笑する。
 「とりたてて用があるわけじゃないけど、ちょっと予想外だったかな、と……あ、手塚は平気なのか?」
 「真田が言い出したら聞かないのは、お前たちもわかっているだろう。それに、あくまで『軽く』だと本人は言っているからな」
 「そっか……」
 そのへんも、『約束を破るのは性に合わん』という精神を貫き通してほしい、と切に願う俺だった。

 真田の予約した店に着いてからの俺は、今のように若干悩みを抱えた状態で思いきり飲んだら、悪酔いするのが目に見えていたので、セーブして飲んだけれど、木更津兄弟と桜井はかなりいける口らしく、かなりの量を空けていた。
 宍戸は約十分ごとに彼を心配してかかってくる、先ほどの電話の主にキレたらしく、後半は電源を切って酒をあおり、相変わらず真田と火花を散らしていた。
 手塚は、俺よりも控えめだった。
 ――うーん、これが責任感の差ってやつなんだろうか……。
 同じ主任として、ふと思ったけれど、俺は俺の制御できる範囲で飲んでいる、という自覚もあったし、あまり気にするとまた雅美の「お前は気にしすぎるから、胃を痛めるんだよ」という声が聞こえそうに思えたので、できるだけ気にしないことにした。

 途中で、真田が手塚と語り合っている時間(一方的に真田が手塚を語り相手にしているようにも見えたけど)があって、その二人を除いたメンバーが話す機会があった。
 「おい木更津。オレはお前らの案、素直にすげぇと思ったぜ。なぁ、オレたちも範囲とか日程とか、都合が合ったらやってみねぇか? どうだ、南?」
 「あ、ああ、俺はかまわないけど……他の先生が作る問題を見るのも……」
参考になると思うし、と言おうとしたら、蕎麦焼酎のボトルと氷を傍らに置いた桜井が積極的に話に入ってきた。
 「それだったら俺も、ぜひ参加させてください! さっき真田先生に訊かれたときは七割方って答えましたけど、どうも自分で作った問題に自信がなくて、ほとんどが過去の先生が残した問題の焼き直しなだけなんです。だから自分の作った問題を見てもらったり、最近の他の先生が作られる問題を参考にしたいと思っていたんです! よろしくお願いします!」
 頭を下げる桜井に、
 「僕たちは、いつも一緒に作ってるからかまわないけど」
 「ああ。みんなでやれば、もっと労力と時間の節約になるかもね、クスクス」
 木更津兄弟も好意的な反応を見せる。
 「よし、決まりだな。で、今度のうちの日程と範囲は……」
 宍戸が学年ごとに範囲を述べると、それぞれにかぶる範囲があったらしい。
 「じゃあ、それぞれ手分けして作ってみればいいんじゃねぇか? んで、週末に突き合わせて、各学校の授業とテストの日程によって手直しして使えば、一から作るより簡単じゃねーか」
 「で、どこで突き合わせるの?」
 木更津淳が言うと、木更津亮がいたずらっぽく笑う。
 「僕は千葉だよ。みんなが来れるならかまわないけど、クスクス」
 「オレんとこは……犬を一匹追い出せば、なんとかなる……と思う」
 「犬!? そんな、追い出したらかわいそうじゃないか!」
 目をそらしながら言う宍戸の言葉に俺が慌てると、木更津淳がこともなげに言う。
 「僕のところはアヒルだけど、それも追い出せばなんとかなるよ。追い出さなくても、けっこうマメだから、飯作ったりしてくれてそれなりに便利だとは思うけど……ちょっとうるさいかもしれないね、クスクス」
 ――みんな、すごいペット飼ってるんだな……。
 「すみません、俺自身はかまわないんですけど、俺の部屋って四・五畳のアパートなんで、皆さんが入りきれるかどうか……」
 桜井が申し訳なさそうに言う。
 俺以外の全員が自分の環境について述べたので、自然、俺に視線が集まる。
 「えーと、俺のとこは……男の一人暮らしだから、それなりに片付けなきゃならないけど、いちおうみんなが入れないことはない……と思う……」
 あいまいに言うと、宍戸が軽くうなずく。
 「じゃ、決まりな。週末は南んとこで、テスト問題の突き合わせと修正。こっちのほうがよっぽど研究会らしいじゃねーか」
 ――すまん、雅美。しばらく俺の部屋の鍵はお前に渡せない……と思う。少なくとも、テストが終わるまでは。
 自分の同僚にお前との仲がバレるのは――百歩譲って仕方ないとしても、やっぱりまだ他の学校の先生にバレるのはマズい気がする。  ……だけど、そうやって雅美に合鍵を渡さなくていい口実ができたことに、ほっとした自分もいて。
 決して、雅美のことが嫌いなわけじゃないし――そりゃ付き合ってるんだから、好きじゃないわけはないんだし――だけど、お前に部屋の鍵を渡すには、なんだか俺の中で一つ、超えなきゃならない線がある気がする。

 ――結局、真田の『軽く』は終電だった。
 ほとんどのメンツは都内だったからいいけれど、真田はどうやって帰ったんだろう。
 backnexttop
index